今日はアナスタシアの言う大罪のプライドについて
ちょっと書いてみようと思います。
彼女の言うプライドは「誇り」ではなく、「傲り(おごり)」です。
ここはとっても肝心ですから、間違えないで下さいね。
「私は傲っていない」 と思っている方もいらっしゃるかもしれませんが、
おごりって、とってもとっても根が深~いんです。
「うぬぼれ」、「傲慢」、「自尊心」などとも説明できると思います。
(「自尊心」については追って説明させていただきますね)
私の中にも、みなさんの中にも傲りはあると思うんです。
あっ、断言しちゃってごめんなさいね。
ご自身の職業のことを想像してみてください。
例えばあなたは「主婦」だとしましょうね。
30年のベテラン主婦の私。
ある日、嫁に「あら、お母さん、トイレ掃除はこういう風にやってください」
と言われたとしましょう。
正直、一瞬であってもむかっときますよね。
傲り発見で~す!
別の例を挙げてみますね。
外を散歩していたら、空から美しい羽が落ちてきました。
「おや、僕の目の前に天から羽が舞い落ちた。
これは天から俺へのメッセージに違いない」
確かにそうかもしれませんが、そうでないかもしれません。
僕だけのと思った瞬間があれば、傲り発見で~す!
こんな具合に最近ずっーと「傲り」について考えているのですが
どれも共通して言えることは、
主語に私、俺がついたとき
そこに「傲り」があるのかと思います。
別の言葉に直すと、他人と自分に「分離」があるとき だと思うんです。
己の存在を認め受け入れることは大切です。
でも「自分」がある場合、つまり「自尊心」があるということは、
分離があるんだと私は思うんですね。
だからと言って、「あなたと私は本質は一体なんだから、好きなようにさせていただきまーす」
というのも、それもリバースの傲りだと思います。
私はそんなことをする人ではないから大丈夫、と思ったりするんですが
でもね、自分でも気が付かないところで、平気で案外こんなことを言動しているですよ。
ホント!
逆に、他人にされて傷つくこともありますよね。
でもその人は全ー然気が付いていないの。
自分でも気が付いていない、微細なところで
「傲り」をしていないか、
また他人を「コントロール」したり「傷つけていないか」
毎日内観が必要だと思いました。
これは反省ではなく、自分が前進し拡大するためです。
現在は「分離」とはどこから生まれてくるものなのかを内観し続けています。
そうそう、余談ですが、1週間ほど前でしょうか
ツバメ君が巣を探しているのを発見しました。
お帰りなさい、ツバメ君。
今年1番乗り! ステキなラブホームを創ってね!
ちなみにもっと余談ですが、店長の目がかゆいです!