こんにちは、アナスタシア・ジャパンの岩砂晶子です☆
山が笑う季節も過ぎゆこうとしていて、
藤の花の紫色が髪飾りのように
深まってきた緑に映えて、
あ~五月ももうすぐなんだと気づかせてくれました。
最近、「しあわせ」について考えています。
まだ完全にはまとまっていないんだけれど、
その一部をちょこっとだけシェアさせてくださいね☆
「国民のしあわせのために」とか、
「わが社は、社会のしあわせのために」だったり、
「家族のしあわせのために」など、
このありふれた表現は
町中のポスターをふくめ、いたる所で見聞きする。
でもさぁ、そもそも「しあわせ」ってナニ?
そう訊ねると、
決まって「しあわせは、人それぞれだから」
という答えが返ってきて、
誰も具体的な「しあわせ」の定義ができない。
ある程度考察がなされているとわたしが感じる定義ですら、
マズローの欲求の法則くらいかな・・・。
さらに興味深いのは、
昔から、家族や社会、そして国の指針が「しあわせ」を掲げているのに、
肝心のその「しあわせ」の定義が
ふわふわして
なんとなくしか定まってないこと(笑)
わたしたち人間って、本当に非論理的だよねー。
でもさ、
たしかに「しあわせ」を定義するのって難しいよね~。
それでも、
もう少し具体的にしておかないと
国も、社会も、家族も、自分も
どこに向かって進んでいいのか、わからないはず。
わからないから、
今、人間社会がこのようなあり様なのかもしれないなぁ。
だからこそ、
少なくとも「自分にとってのしあわせ」の「気持ち」や「感覚」が
どんな感じのものなのかは、
明確に知っておきたいと思う。
そしてそれは、
自分の内奥の掃除ができていればいるほど、
より明確に感じられ、
そして、
より言葉では表現しきれない「気持ち」や「感覚」になっていくのだと思うの。
テレパシーが主流になるころは、
人々は「しあわせ」の定義を
言葉なき言葉、
つまり「感覚」や「気持ち」のエネルギーで定義し、
人々はより「しあわせ」に近づくんじゃないのかな☆
はい、わたしのひとり言はここまで~
すてきな週末を過ごしましょうね☆