こんにちは、アナスタシア・ジャパンの岩砂晶子です☆
今日は初夏を思わせる一日でしたね。
わたしは重い腰を上げ、ついにヒーターを片づけたり(はい、遅いですよね~)、
お布団の衣替えをしたりと
若干、年末の大掃除さながらとなりましたぁ~。
前回の日記に「張りぼての愛」と書いたのですが、
説明不足だったかもしれませんね☆
少し捕捉してみます。
人のしあわせを、自分の価値観で測っていたかも・・・と気づいたんです。
自分の価値観だけで、つまり自分本位の理解で
相手のしあわせを勝手に決めつけていないか?
そして、
おせっかいにも、
その人を心配してみたり、
その人に尽くしてみたりなんかしていないか?・・・と(苦笑い)。
それは、
相手が誰であれ、同じ。
友人や、親族、会社の同僚、パートナー、わが子・・・。
その人には、その人なりの価値観やしあわせがある。
自分が知り尽くしていると思っている相手ですらも、
つまり、
わが子であっても、
パートナーであっても、
他人であり、自分ではない。
だから、相手が
自分の思う「しあわせ」や価値観とまったく同じものを持っているとは限らない。
いや、同じなんて有り得ナイ!
つまりそれは、相手のことをぜんぜん理解できていない、ということ。
いや、自分以外の人を理解するだなんて、そもそもできないものでしょ☆
それなのに、
相手のためだと勘違いして
愛を押しつける・・・
そんなのは「張りぼての愛」だと
ある方が教えてくれて、気づいたの☆
もっともっと純粋に、
自分の価値基準でジャッジ(●×判定すこと)することなく、
ありのままのその人を、
素晴らしい存在として尊重し、認め、受け入れる。
人って、それだけで
とっても嬉しいものなのだから。
わたしはまだ「本物の愛」を探求している身。
おそらく愛は、ことばでは表現しきれないものだと思う。
ことばにしてしまうと、それだけで制限が生まれてしまうから。
だから、
自分以外の人に愛を説明することはできない。
各々が、自分の意識を拡大しながら、
感じ取って、自分の一部にしていくものだと思う。
不明瞭に感じるかもしれないけれど、
本物の愛は
すっごくあたたかくて、
まさに、よろこびそのもので、
自分の意識がどこまでも広がっていく感覚にしてくれることは間違いない。
そしてそれは、
多くの人の魂の琴線に触れ、伝播していく。
アナスタシアがそうであるように☆
そう今のわたしは、感じていますぅ☆