
親族に不幸があった。
突然の訃報、その日のうちにお通夜があって、
お葬式、初七日、お斎まで
高速ベルトコンベヤーに乗っているかの如く
流れていって、
それらの行事さえも「過去」と化した。
そこに故人への思いを消化する余裕などなく、
ベルトコンベヤーが停止して、自分が運ばれた場所からスタートしてくれ、という段取りらしい。
故人は社会的にみると、それはそれは大きなことを成し遂げた方だった。
そんな大きな存在がこの世から消えた。
消えたけれど、
今、どこかでは赤子が産声を上げ
街角ではコーヒーカップに口を付けてホット溜息が漏れていたり、
結婚式に歓喜したり、
または人生のどん底を味わっている、
あらゆる人生模様は人口の数だけオンゴーイングで、
叔父の死なんて、痛くもかゆくもない、
いや、まるで「なかった」かのようだ。
生きる&死ぬって、そんな大事(おおごと)ではないのかもしれない・・・
そう思わざるを得ない。
言うまでもなく、残された者が体験する痛みは計り知れない。
だが、この部分は敢えて割愛しよう。
「死」をいうテーマと向き合うとき、
わたしはいつも、アナスタシアのひいひいお祖父さんを思い出す。
森の奥深くで、意識の力を使って、彼は肉体を脱いだ。
アナスタシア一族にとって「死」とは、
あくまでも「肉体を脱ぐ」という行為に過ぎない。
彼らも、さほど大事(おおごと)として認識していないようなのだ。
もし「死」が大事(おおごと)ではないのであれば、
さて、わたしはどう生きるだろうか?
今の生き方を何か変えるだろうか?
そう考えたとき、内奥で「変える」という声なき声が聴こえた。
それが何なのか、具体的な答えを見つけたいと思う。